日本人の対外意識の2
接上一期内容:日本人と日本文化
司馬:
ちょっど長安の都の半分の大きさだそうですから、ずいぶん大きいですね。長安は当時百万をこえる人口だと言われておりますが、しかし必要があってできたわけです。長安には、よく言われているように、飲み屋、バーなんかがあったり、ベルシア人の貿易商人が町を歩いていたり、そういう状況があるわけですけれども、平安京にはそれがない。もちろんバーも何もない。どうも庶民が住んでいたような匂いがあまりなくて、しかも最も重要なことは、ここにはトレイの跡が出てこないそうですね。生活の匂いのする、そういうきちんとしたものが出てきてないということは、わりあい象徴的だと思うのです(笑)。
それから長安の都で即位の式だとか、非常に重要な式をする場合に、異民族を呼びますね。異民族を呼んで舞踊をさせたりして、みんな中国の儒教の心、礼の教えに従っているのだということを、儀式を通じて証明させた。その儀式に異民族が登場することは、中国ではわりあい重要な要素になるわけですけれども、日本はそれまでまねしなければならなかった。
キー:
今日私たちが平城宮址の博物館でみたものの中に、渤海国の大使がきたことを記したものがありましたが、当時の唐時の中国は、世界の中心だったから、いろんな方面から各民族が貢ぎ物を持ってきて、それを宮廷に捧げた。日本にも同じようなことが日本人の自尊心のために必要だったと思いますね。それで、渤海国から貢ぎ物をもらってたいへん喜んだのではないですか
司馬:
平成宫大概正好是长安都城一半的大小,相当的大吧。据说长安当时超过了百万人口,因为有必要才建成的。在长安据说有餐馆,酒家,也有来自波斯的贸易商人走在街道上,应该是有那样的场景,但是在平城京里没有那样子的情形。当然没有什么酒家,什么也没有。连老百姓生活的气息也不太有,但是最重要的一点是这里好像没有出现厕所的痕迹。生活的气息,那样的东西都没有出现,我想那平城京是相当具有象征性意义的。
那之后,如在长安的即位仪式等,在举办非常重要的仪式时,邀请异民族出席。邀请异民族让他们跳舞,通过仪式证明了大家遵从中国的儒教和礼节。异民族出现在那样的仪式里就成了在中国相当重要的内容。而日本,在那之前不得不模仿中国。
キー:
今天我们在平城宫址的博物馆里所见的东西里边,记载了渤海国的大使到日本一事。因为当时的唐朝是世界的中心,来自四面八方的各个民族拿着朝贡的物品,双手捧着拿到宫殿里。因为日本人的自尊心,对日本来说同样的事情是必要的。因此,收到来自渤海国的贡品难道不是非常欢喜的么?
<注释>
渤海国(698年—926年)是东亚古代历史上的一个以靺鞨族为主体的政权,其范围相当于今中国东北地区、朝鲜半岛东北及俄罗斯远东地区的一部分。698年,粟末靺鞨首领大祚荣在东牟山(今吉林敦化西南城子山山城,又说在今吉林延吉东南城子山山城或和龙西古城),称“震国王”(一作“振”),建立政权。713年,唐玄宗册封大祚荣为“渤海郡王”并加授忽汗州都督,始以“渤海”为号。762年,唐朝诏令将渤海升格为国。此外还有“靺鞨国”、“渤海靺鞨”、“高丽国”等别称。